三菱・大府飛行場

(戦前・戦中)

 太平洋戦争当時、愛知での航空機の輸送は、三菱重工業名古屋航空機大江工場で作った機体を、牛車や馬車で深夜に岐阜県の各務原飛行場に運ぶという、非能率で非合理的な方法に頼っていた。これを少しでも早く解消するために、近隣に滑走路つきの組立工場の設置が迫られた。

 三菱は当時の大府町(大府市)と隣接の上野町(東海市)にまたがる丘陵地帯に、およそ五百七十万坪(約十九平方キロ)の土地を取得した。知多丘陵地の山を削り、谷を埋める三十ヶ月にわたる大工事の末、昭和十九年四月に長さ千三百メートルの滑走路に総組立工場と整備工場が付属した三菱航空機知多工場が完成した。ここで生産された航空機は、そのころ「キ67」と呼ばれ、陸軍の「四式重爆撃機」で通称「飛龍」と呼ばれた。この飛行機は、爆撃機ながら高性能で運動性に富み、高度六千メートルで最大時速五百五十キロと当時の戦闘機並みのスピードを出し、超低空飛行にも優れていた。そこで海軍の雷撃機や防空戦闘機にも使われるなど、実に多方面にわたり活用された。離陸距離も七百メートルほどで、零戦とならび称される名機といえる。

 大府飛行場は三菱にとって長年の夢が実ったものであったが、その終末は終戦と共に訪れた。僅か一年四ヶ月で飛行機工場の幕は閉ざされた。何機もの「飛龍」が大府飛行場に残された。やがて連合軍司令部による破壊命令により、手塩にかけてつくりあげた作業者の手で、部品は大鉈で砕かれ、完成機体はガソリンがかけられて無残にも黒煙を上げて姿を消して行った。

 以上が大府市誌所載関連記事の骨子であり、以下は東海市誌からの抜粋である。 「この大規模な飛行場建設工事は、昭和十九年四月に竣工し各務原飛行場から飛来した九九式爆撃機とMC20型輸送機の二機によって、初の離陸テストが行われた。完成した飛行場は二十万坪の工場と、千メートルの滑走路及び格納庫一棟が備えられ、飛行機の組立が行われた。さらに、昭和十九年十二月より、上野町大字富木島に航空本部の飛行場拡張工事が実施され、近隣集落から多くの勤労奉仕に出た」 九九式爆撃機は愛知時計製、MC20型輸送機は九七式重爆撃機の輸送機への改造型で三菱製。

 終戦後の様子を、「あいちの航空史」は次のように伝えている。 「その大府に爆音がよみがえったのは二十七年八月十五日だった。航空部を発足させた中日新聞の水陸両用機、リパブリックRC3型シーバー「飛竜」とパイパーPA20「白鳩」の名古屋入りだった。滑走路とはいっても、かっての大府飛行場の一角をならしただけで、長さも四百二十メートルほどしかなかった。三十三年七月、中日機は小牧へ移り、大府飛行場は姿を消していった」

 最後に、豊田自動織機「四十年史」(昭和四十二年刊行)から引用する。 「昭和十九年、太平洋戦争の頽勢が日増しに明らかになったころ三菱航空機(株)は軍の支援のもとに、大府町長草の地(約十二万坪)に、飛行場の建設を開始した。建設にあたっては知多・愛知・碧海郡などの各種団体、町村奉仕団の人々が多数動員された。しかし、スコップ、モッコ、一輪車などを使用しての造成工事は遅々として進まず、ようやく二十年春には、小型機の発着ができるようになったが、大型機の発着は終戦までにはついに間に合わなかった。  戦後、この飛行場の一部は農業開拓者の農場に転換されたが、残り六万坪は三菱重工業(株)の所有のまま放置されていた。昭和二十七年二月、当社は大府町のあっせんにより、この地を同社から買い受け農業機械の試験場として、あるいはAPA特需車両の完成車置場として利用してきたが、その後、当社の多角経営ももう一つ延びきれないままに、この地を充分活用することもなく現在に至ったのである」

 この地域は知多半島道路の東側で大府市と東海市とが入り組んでいる。高台にある豊田自動織機長草工場が飛行場跡地の一部と考えられる(写真)。大府飛行場はまるで航空母艦の飛行甲板のようだった、というからそこにあったに違いない。なお、その周辺は丘陵地帯で森、畑地、民家などが点在し、平坦で長い滑走路跡らしきものは見当たらない。

 総組立工場跡に残っていた格納庫は、前述の小牧飛行場に隣接して建設された三菱重工名古屋航空機製作所小牧南工場に昭和二十八年移築され、第一格納庫として今なお健在である。

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