昭和十四年に正式採用された九九式艦上爆撃機は「日本海軍で初の全金属製単葉艦爆」で、昭和十七年までに四百六十七機が生産された。真珠湾攻撃には、零式戦闘機百三十五機(三菱)、九七式艦爆百四十四機(中島)と並んで愛知時計製の九九式艦爆百三十五機が参加し戦果を挙げ、同社は「艦爆の愛知」と呼ばれた。 昭和十八年、愛知時計電機の別会社として愛知航空機株式会社(のちの愛知機械工業)が設立された。九九式に続く艦爆「彗星」の総生産数は約二千百六十機に及んだが、そのうち千八百十二機を愛知時計電機・航空機両社で製造した。 さらに、艦上攻撃機「流星」、潜水艦搭載用特殊攻撃機「晴嵐」、を産んだほか、水上偵察機、九ニ式四連装魚雷発射管、水雷、探照燈、戦艦大和・武蔵に搭載された九八式射撃盤などを製造した。
水上機の発着場は南部埋立地(十二号地)の永徳機体工場(現在、愛知機械工業永徳工場)にあった。台車にのせた水上機を滑らせて水面に浮かべ、庄内川河口を滑走して離着水した。 白鳥橋から一五四号線を南南西に下り、二三号線のガードをくぐって西南西に向き、築地口・築三町を経て稲永町で南に向きをかえる。西稲永を過ぎて右側の愛知機械の敷地が終るあたりで右折すると、稲永公園に入る。 公園内にある稲永スポ−ツセンターの庄内川べりに、コンクリート製フロート機用スリップが残存している。幅約二十五メートル、長さは波打際から護岸工事のために切断された所まで約三十五メートル、南向きに数度傾斜している。小石混じりのコンクリート製で、斜面は亀裂が入りでこぼこで見る影もない(写真)。 庄内川河口で水上機が離着水するのを、当時の技術者達は岸辺から胸を躍らせながら見守ったことだろう。
名古屋飛行場と呼ばれた陸上機や艦載機の整備・空輸用飛行場も永徳機体工場の付近にあった。 初期の名古屋飛行場は昭和九年、十号地に完成した。滑走路は今の潮凪町稲永ふ頭付近を南南西に真直ぐに延びる道路(約一・一キロ)あたりと思われる。
「愛知時計電機八十五年史」百八十四ページに次の記述がある。 「名古屋にも東西に劣らぬ飛行場を…。この要望は名古屋経済界の切実な願いであったが、この施設を利用するのは、逓信省であり、民間の航空輸送会社であり、地元で航空機を生産する愛知時計電機や三菱である」 実現のための最大の課題である建設費の捻出にあたっては、愛知時計電機と三菱はともにその一部を負担し飛行場の建設に努めた。
後期には十一号地に移り、滑走路は今の金城ふ頭線の汐止町から金城橋交差点間(約一・五キロ)あたりと思われる。ここは今、平坦な鉄筋コンクリート片側三車線の道路が真南に延び、伊勢湾岸自動車道が通る名港中央大橋の下を通って国際展示場のある金城ふ頭に至る。
学徒勤労動員の思い出を綴った「飛行機雲の空」という本に、著者高井義弘氏は柳田邦男著「零戦燃ゆ」に名古屋市南部の三菱重工大江工場で製造された零戦に関し、「零戦を、ほとんどの場合は牛車で各務原(かがみはら)まで、一部は艀で鈴鹿飛行場まで運んだ」と書いてあるのを読んで、次の感想をもらしておられる。「それにしてもである。牛に引かれて各務原では、何とも遠い所を御緩りと運んだものだ。大戦争の真最中に、飛んでもない能率の悪い事を遣ってたものだ。何故、愛知航空の飛行場にどんどん運んでこなかったのだ」 三菱重工大江工場のある六号地から各務原飛行場まで直距離でも約三十五キロ、十一号地までなら名古屋港を横切って僅か三キロに過ぎない。 著者の率直な疑問はもっともである。
南部埋立て事業も止まるところなく進められてきたが、藤前干潟の埋立てが中止となって一頓挫した。だが、南方に広大なポートアイランドの造成が進んでいるし、中部国際空港用地の埋立もまさに始まろうとしている。
なお、伊保原飛行場(豊田市浄水町)が、愛知時計電機の試験飛行場として昭和十四年に造成された。滑走路は豊田浄水場正門前付近から西へ浄水町伊保原北交差点までの、片側ニ車線の直線道路(約一・四キロ)と思われる。
昭和十七年伊保原飛行場に名古屋海軍航空隊が併設され、終戦の年春には熱田神宮の草薙之剣に因んで草薙隊の特攻隊が産まれた。浄水町原口交差点を北に入ったところの少年院(元海軍航空隊敷地)の脇に、碑が建っている。
「神風特別攻撃隊
草薙隊之碑
此ノ地ハ昭和十七年四月一日開隊昭和二十年九月二日解散セル名古屋海軍航空隊ノ址ナリ
昭和二十年春当地ニ於テ神風特別攻撃隊草薙隊編成サレ四月五日十二日の両日各二十機ノ九九式艦上爆撃機ハ鹿児島県国分基地ニ進出菊水一号二号四号作戦ニ参加 同月六日十二日の三次ニワタリ沖縄本島西方泊地ノ米艦船ニ突入ス 未帰還二十八機戦死五十六名
彼ラガ眠ル沖縄ノ地ガ祖国復帰ノ日ヲ迎ウルニアタリ有志ノ協力ヲ得テ豊田市在住ノ元海軍軍人本碑ヲ建立シ草薙隊ノ忠烈ヲ永ク後世ニ伝ヘントスルモノ也
昭和四十七年四月吉日
豊田海友会」
戦後、愛知時計電機の元魚雷発射管試験池の底から、旧海軍九三式魚雷後部が発見され、半世紀の間風雨に耐えていたのを忍び難く、保存のため清浄化した。この魚雷は各形式の中でも一番大きく愛知時計では海軍艦政本部からの調達令により、魚雷頭部と後部を製造し呉海軍工廠で組立完成して、愛知時計製の魚雷発射管で撃ち出したのである。 九三式魚雷は旧海軍が世界に誇った高性能の酸素魚雷で、発射後は航跡が残らないため敵に発見されなく、射程も三万メートル以上もあり頭部の炸薬は一発で一艦を沈めるほどの強大な爆発力があった。 昭和十二年に「汎太平洋平和博覧会」が港区港明で、国内はもちろんのこと太平洋沿岸諸国三十一カ国が参加し、堅物(かたぶつ)の日本陸軍も出品して盛大に行われた。その時、会場のすぐ西隣を流れる中川運河で、海軍が魚雷の発射試験をやっているのが目撃された。名古屋は軍用機だけでなく、魚雷の製造や試験にも関わりがあったのである。
以上をまとめるにあたって、愛知時計電機株式会社より多数の資料を提供していただいたほか、関連史跡の案内など多大のご援助を賜りました。感謝してお礼を申し上げます。
名古屋飛行場 補足
昭和9年に名古屋港十号地に開港。ただし、南に隣接する十一号地に建設が計画されていた名古屋国際飛行場が完成するまでの仮飛行場であった。名古屋国際飛行場は昭和16年開港。19年に海軍に接収された。
名古屋港六号地の名航大江で生産された海軍機の一部は、団平船でここにも運ばれていたようです。
投稿者:松木