明治航空基地の飛行場

(戦前・戦中)

 海軍が碧海郡明治村(安城市)に搭乗員の養成用として飛行場建設を始めたのは昭和十八年(1943)四月からであった。矢作川の右岸、穀倉地帯の中でも豊かな土地として知られたところだったが、地主たちは前の年に海軍省から「軍は是非もない必要に迫られているから、土地を売り渡してもらいたい」との要請を受け、渋々承知させられていた。広さは、東端、根崎、和泉の三つの集落にまたがる百九十八万平方メートルで、里の人たちも交代で飛行場造りに精を出した。

 昭和十九年初頭には、飛行場が姿を見せ始めた。滑走路は、北西に向け扇の骨を開いたように四本、これに交差するように放射状に西に向け二本が作られた。その長さは二本が千四百メートル、他が千二百メートルで幅は二十五メートルであった。

 安城市街から安城碧南線(県道四十五号)を南西方向に進み、国道二十三号線の下を過ぎ和泉町西交差点を渡って少し行ったところから旧基地敷地に入る。田畑と住宅、工場の入り混じった地域を過ぎ、工場が尽きたあたりから前面に広大な麦畑が広がる。この地域に海軍が東洋一と自負した滑走路があった。県道はその中央を縦断し、再び住宅地が集まる南端町交差点に至る。その西方にある村社の隣にある公園の隅に下記の碑がある。

「明治航空基地之碑 太平洋戦争たけなわの一九四三年四月、横須賀海軍施設部の監理の下、当時の愛知県碧海郡明治村大字東端、根崎、和泉の三集落に挟まれた約二百ヘクタールの農地に、海軍の軍用飛行場の建設が始められた。そして翌年三月下旬から終戦(一九四五年八月十五日)に至るまで、建設工事と平行して海軍航空隊が航空基地として使用した。その間、配属航空隊は、訓練部隊として練習航空隊の教育を終えた搭乗員に対し、当時の各種新鋭機(「零戦」「紫電」「月光」「彗星」「天山」「彩雲」等)の使用に完熟させるための練成訓練を行うとともに、一九四四年十二月から翌年四月にかけては、作戦部隊として主に名古屋地区に来襲した米陸軍長距離戦略爆撃機B-29の要撃や、米軍沖縄攻略部隊の撃滅作戦(沖縄特攻作戦)に参加した。

また、一九四五年一月十三日早朝、この地区を襲った三河地震(東端の被害、住宅全壊七十七、同半壊百二十一、死者二十四、重傷五、軽傷三十六、等)の際は、近隣町村被害者の救出・救援並びに災害の復旧に当った。 大東亜戦争終結五十周年を記念し、改めて世界恒久の平和を祈念するとともに、その歴史的事実を後世に伝えるため、この碑を建てる。

一九九六年三月 東端町内会 明治航空基地配備航空隊名
 一九四四年五月〜七月 第三四五海軍航空隊明治派遣隊
      同 七月〜九月 第三四一海軍航空隊明治派遣隊
      同 九月〜終戦 第二〇一海軍航空隊
 一九四五年六月〜終戦 東海海軍航空隊」

例えば、前掲の「三菱航空機発動機工場、名古屋」爆撃(1945年2月15日)では、飛燕(攻撃回数:43)、月光(31)、零戦(30)、鐘馗(28)、隼(11)、屠龍(10)、機種不明単発(4)、機種不明双発(4)、雷電( 3)が出撃しており、この中にこの海軍基地から発進した飛行機も含まれていたことであろう。

 彗星は三号三番爆弾を搭載した。この爆弾は敵編隊の上空より投下し、編隊付近で爆発させ飛散する弾子により敵機に損傷を与える目的の三十キロ爆弾である。この日も、あるB-29は、「機種不明単発航空機が1個の燐爆弾を投下したが、結果は確認できなかった」と報告している。三号三番爆弾はこの燐爆弾だったのだろうか。

 昭和二十年五月の編成替えで二一〇空は飛行訓練を再開し、要撃戦に参加しなかったため、基地周辺の住民から「明治基地の飛行機は敵機が来ると掩体壕に隠れ、敵機がいなくなると飛び上がる。一体何のための航空隊だ」などと陰口をたたかれたこともあったという。

 終戦時、飛行可能航空機は零戦四十五機を含め四十九機が残ったが、十一月進駐軍が来て滑走路で焼却処分され、滑走路も爆破された。跡地は地元に引き渡され組合を組織して開拓にとりかかり、昭和三十一年四月までに登記その他一切の開拓事業を完了した。

 畑仕事のおばさんに尋ねて、前記村社と公園の間の道を北へ三百メートルほど戻ると、右側の空き地に土管の親分のような巨大なパイプが土をかぶって横たわっているのが見える。部隊の武器弾薬の収納庫だったらしく、内部は幅・高さとも約二メートルのドーム形をしており、厚いコンクリート製で、長さ約十メートルの最奥の天井に通気孔が開いている。

この文はのご好意で転載いたしました