小牧飛行場

(戦前・戦中)

  昭和十五年五月陸軍航空本部は名古屋市防衛の要害として、大部分が水田で畑が少し、その中に岡山・佛鬼山という標高二十メートルの小山を持つ豊山地区が

●気象条件がよい
●平野である
●水田の埋め立てに二つの丘陵が利用できる

などの理由で、ここに飛行場を建設することに決定していた。その後太平洋戦争が起り、昭和十七年四月十八日に本土空襲を見るに及んで、急に着工の運びとなった。

 集められた地主百余人を前に、陸軍大尉から「長らく陛下の土地を預かってもらったが、今度お国で要るようになったので返してもらいたい」と言い渡され、強制的に立ち退かされた。今日、中国もこれと同様の手口で強引に近代化を進めており、帝国日本と共産中国との思わぬ類似性に驚ろかされる。

 飛行場の用地として七十七万坪が接収または借り入れられ、埋め立て工事のほかに滑走路千五百メートル二本と駐機場、それに東側(現在の自衛隊基地入口南側一帯)には兵舎・格納庫・航空廠分室等を建設、西側(現在豊山町営住宅)にも兵舎を建てた。また、場内には掩体壕二十箇所を設けた。

 昭和十七年五月着工した工事は、滑走路一本は未完成で一応出来上がったので、昭和十九年二月完成式が行われた。同年末になるとB-29の本土攻撃が始まり、この飛行場も空襲を受けた。この飛行場を撮影した米軍の偵察写真に、現在の滑走路の北側に平行してもう一本の未完成の滑走路が認められるという。

 現在は、二千七百四十メートルの滑走路長を有し、航空自衛隊小牧基地と共存する名古屋空港(国内線及び国際線)として、多数の乗降客でにぎわう。数ある愛知の飛行場の中で、戦後を生き抜いたのはこの飛行場だけである

この文はのご好意で転載いたしました