太平洋戦争直前の昭和十六年、海軍航空隊強化のため追浜(横須賀)海軍航空隊知多分遣隊を組織し、美浜町古布、矢梨、浦戸の耕地・宅地等約百八十町歩を買い上げて水上機基地を建設することになった。
昭和十八年には、ここに整備員の養成を目的とする河和第1航空隊が、翌年四月には水上機搭乗員の養成を目的とする河和第2航空隊が設置された。
河和漁港の右隣に、防波堤の下から幅約五十メートルのスリップが緩く傾斜して水面に伸びている。防波堤は戦後、特に昭和三十四年の伊勢湾台風以後に築堤されたものであろう。スリップの両側は石積みされ、表面は碁盤の目に仕切ってコンクリートが打ってある。防波堤が南に折れて真直ぐに続く途中にも幅約百八十メートルと八十メートルの二つのスリップが残存している。こちらは波浪をまともに受けるからか、石積みが崩れたり、砂が溜ったり、コンクリートが剥がれたりして特に破損が著しい。自然の為すがまま放置しておくと、やがて原型を留めぬまでに崩壊が進むであろう。
水上機用のスリップは庄内川河口(4.名古屋飛行場参照)や、霞ヶ浦畔の防衛庁技術研究本部土浦試験場内(茨城県土浦市)に現存するが、規模の点では河和が最大ではないかと思われる。
この海岸から南方山の手の見晴らしの良いところが、航空隊本部があった所である。今は公民館になっており、近くに航空隊の碑が建っていないか尋ねてみたが、心当たりはないとのことであった。
この航空隊には、零式水上観測機、九五式水上偵察機、水上戦闘機「強風」など、およそ九十機が配備された。昭和十九年末からは特攻訓練が行われ、二十年五月には一期生が特攻隊として出撃し、一部は帰らぬ人となった。
戦後、飛行隊用地百八十ヘクタールのうち、百五十五ヘクタールを戦後の国策に従い開拓地として再開発し、他は学校及び工場用地にあてられた。