甚目寺飛行場

(戦前・戦中)

 海部郡甚目寺町にある真言宗甚目寺(じもくじ)は、古くから甚目寺観音といわれ、江戸時代から尾張四観音の筆頭として尊崇を集めている。

 昭和十九年三月、その地域の関係地主を前に内務省土木部または憲兵ともいうが何事かしゃべったと思うと万歳が三唱された。それで名鉄津島線甚目寺駅北方に広がる約二百町歩を飛行場として利用することについて、否応なしで一方的宣言で決定されてしまった。

 こうして、翌日から勤労奉仕隊が動員され、後に陸軍野戦飛行場設定隊が加わって、海軍が米軍から手に入れた当時は珍しい土木機械を駆使して早期完成に努めた。その結果、中秋に長さ千五百メートル幅六十メートル厚さ二十センチのコンクリート製滑走路が完成し、小牧飛行場で待機していた飛行第五戦隊の二式複座戦闘機「屠龍」四十機が飛来して空の守りについた。

 米軍の「三菱航空機発動機工場、名古屋」爆撃報告書(1945年2月15日)に屠龍(コードネーム:ニック)の戦闘ぶりが記されている。 「屠龍はB-29に十回攻撃をかけてきた。これは全攻撃回数の6パーセントにあたる。目標上空高度27,500フイートで、屠龍二機が並んで正面上空から攻撃してきた。一機は100ヤードまで迫って来たが、B-29の防御砲火に気が狂ったようであった。他の一機はスプリットSで攻撃してきたが、400ヤードで避退した」 スプリットSとは、敵の前上方から接近し反転して後方に付く空中戦法のこと。

「愛知航空機製作所熱田工場」爆撃(1945年6月9日)にも、八十七回の攻撃のうち屠龍によるものが十三回あったと記している。

昭和二十二年十一月に米極東空軍が撮影した俯瞰写真に、北北西−南南東向きの滑走路が写っている。

 戦後、飛行場の廃止が決まるや逸早く飛行場の払い下げが陳情され、これによって昭和二十二年より四十年度までの十九年間にわたり開拓事業が行われた。二百町歩という大区域が一元的に農地に転換されたため今日、滑走路の面影は全く止めていないが、巨大なコンクリート造りの作戦室跡が残っているという。

以上、甚目寺町が戦後五十周年事業として編纂された「甚目寺飛行場(正式名:清洲飛行場)」よりの引用を中心にまとめた。

この文はのご好意で転載いたしました