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 ▼WWIのシュリーフェン・プランの評価  山家 03/3/16(日) 19:07
   ┗Re:WWIのシュリーフェン・プランの評価  まなかじ 03/3/16(日) 22:29
      ┗Re:WWIのシュリーフェン・プランの評価  山家 03/3/17(月) 20:22
         ┗Re:WWIのシュリーフェン・プランの評価  まなかじ 03/3/18(火) 0:51
            ┗Re:WWIのシュリーフェン・プランの評価  山家 03/3/18(火) 21:07
               ┗Re:WWIのシュリーフェン・プランの評価  まなかじ 03/3/19(水) 23:17
                  ┗Re:WWIのシュリーフェン・プランの評価  山家 03/3/20(木) 20:03
                     ┗明治時代には元老がいましたね  TETSU29 03/3/21(金) 9:15
                        ┗Re:明治時代には元老がいましたね  山家 03/3/21(金) 21:55
                           ┗Re:明治時代には元老がいましたね  木 03/3/24(月) 19:53
                              ┗Re:明治時代には元老がいましたね  山家 03/3/25(火) 21:39
                                 ┗Re:明治時代には元老がいましたね  木 03/3/26(水) 19:48
                                    ┗シュリーフェン・プランの破綻の要因  山家 03/3/27(木) 22:36
                                       ┗Re:シュリーフェン・プランの破綻の要因  ルクルス 03/3/28(金) 1:59
                                          ┗Re:シュリーフェン・プランの破綻の要因  山家 03/3/28(金) 20:45
                                             ┗Re:シュリーフェン・プランの破綻の要因  ルクルス 03/3/28(金) 23:50

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 ■題名 : WWIのシュリーフェン・プランの評価
 ■名前 : 山家
 ■日付 : 03/3/16(日) 19:07
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    最近「ゲーム・ジャーナル」という雑誌の記事で、WWIの際シェリーフェン・プランについての記事を読み、以前、知人同士で議論した際のことも思い出して、ここに投稿することにしました。いろいろネット検索も掛けてみたのですが、私自身、今一つ理解しかねることもあるのです。

 まず、第一にシェリーフェン・プランの基本構想の妥当性です。私の覚束無い理解で述べると、
1、露仏同盟により、独は挟撃される。
2、露が総動員するのには時間が掛かるので、露が総動員を完了する前に、仏を打倒して、両面作戦を避ける。
3、そして、仏を打倒するのには、独仏国境から、仏を攻める方法では独仏国境が要塞化されている以上、不可能である。従って、ベルギーへ侵入し、それによって、仏軍を圧倒し、仏軍を殲滅し、仏を講和に追い込み、以後、対露戦に集中する。
 知人の1人は、1、2はまだ分かるが、3は理解不可能だと言いました。ベルギーを侵略することは、ベルギーの中立を侵すことで、英日の参戦を招く。英日が参戦するということは、敵国を自ら増やし、独を不利に招くことになる。何故、独はそのような計画を立てたのか、分からない。
 別の知人は、セルビアの国家テロにより、墺の皇太子は殺されたのだから、露は墺がセルビアに宣戦布告しても、それを支持するか、黙認すべきだった。墺の行動に対して、露が総動員を掛けた以上、露の墺の宣戦布告は必至で、そうなると三国協商等により、英仏日は独墺に宣戦を布告したのだから、独のベルギー侵入は独に不利をもたらしたとは言えない、WWIが起きたのは露のためで、独は祖国を守るため止む無くベルギーへ侵入したのだと言いました。
 本当のところ、シェリーフェン・プランの基本構想は妥当だったのでしょうか。

 また、シェリーフェン・プランは成功の可能性(ここでいう可能性は、仏の対独講和の可能性をいっています)はあったのでしょうか。もし、原案どおりだったら成功したとか、いろいろ言われていますが、本当のところ、どうなのでしょうか。

 どうか、よろしくお願いします。

 

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re:WWIのシュリーフェン・プランの評価  ■名前 : まなかじ  ■日付 : 03/3/16(日) 22:29  -------------------------------------------------------------------------
   これは、作戦案として妥当性を問うものではなくて、政治的外交的な妥当性を問うているわけですよね?

まず、日本語で読めるネット上の情報源としていちばん使いでのあるこのページ
http://www3.kiwi-us.com/~ingle/index.html

「シュリーフェンプラン」
人名録内のシュリーフェンと小モルトケ
は既に御覧になっておいででしょうか?

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re:WWIのシュリーフェン・プランの評価  ■名前 : 山家  ■日付 : 03/3/17(月) 20:22  -------------------------------------------------------------------------
    まなかじさま、HPまで紹介してくださり、本当にありがとうございます。この書き込みの前に、ご紹介のHPでシュリーフェン・プランに関係のありそうなところは、一通り目は通しています。ただ、見落とし等があったら、すいません。

 私としては、まず政治的外交的な妥当性がシュリーフェン・プランにあったのかを問題にしています。露が総動員を始めたら、ベルギーへ侵入し、まず仏を打倒しようとすることは、政治的外交的な妥当性があったのでしょうか。

 そして、政治的外交的な妥当性の次に、シュリーフェン・プランはうまく行っていたら、本当に仏を講和に追い込めたのだろうか、ということを問題にしています。原案どおりにすべきだったとか、マルヌ会戦の誤判断が無ければとか、言われていますが、本当にシュリーフェン・プランがうまくいき、仏を講和に追い込み、対露戦に独は集中することはありえたのでしょうか。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re:WWIのシュリーフェン・プランの評価  ■名前 : まなかじ  ■日付 : 03/3/18(火) 0:51  -------------------------------------------------------------------------
   >  私としては、まず政治的外交的な妥当性がシュリーフェン・プランにあったのかを問題にしています。露が総動員を始めたら、ベルギーへ侵入し、まず仏を打倒しようとすることは、政治的外交的な妥当性があったのでしょうか。

やはり、そのHPで別宮氏が指摘している説にわたしも従います。
すなわち、妥当性には大変に疑問がある。
ロシアの総動員が同時にフランスへの開戦を意味するというのは、外交で既に敗北していると言って良いでしょう。
それしか選択肢が無いほどドイツの地政学的立場が良くないというのならば、そのように政治外交を進めるのがまず本道というものであり、そういう事態に備えて計画を作っておくのは当然として、それしか用意していない、それしか用意できないというのはドイツの政治外交に妥当性を欠いていることを意味しているように思えます。

ベルギーなどは弱小国であってその防備などは言うに足りない。
純粋に陸上戦で見るならばBEFはたかが2個軍団であり、海軍の立場でさえ考えなければ英軍の参戦はどうってことはない(とは言ってもマルヌで決定的なときに決定的なところにいたのは実にそのBEFだったのですが)
もちろん、長期戦になるつもりはまったくないので、英海軍に封鎖を受けても効き目が出るころにはヨーロッパでの戦争は終わっており、そうなれば英国との講和も成るであろう。
同様に日本の参戦も青島や内南洋の島々を一時的には失うかもしれないが、それ以上に欧州で得るものの方が絶大なので構わない。

とにかくヨーロッパの陸戦で勝ち、フランスとロシアを打倒さえできればドイツの地位と威信は向上し、その後でどうにでもなるというのが基本的スタンスだったようです。

>  そして、政治的外交的な妥当性の次に、シュリーフェン・プランはうまく行っていたら、本当に仏を講和に追い込めたのだろうか、ということを問題にしています。原案どおりにすべきだったとか、マルヌ会戦の誤判断が無ければとか、言われていますが、本当にシュリーフェン・プランがうまくいき、仏を講和に追い込み、対露戦に独は集中することはありえたのでしょうか。

フランスは強国であり、その弱点を衝かねば短期間に勝利を得ることはできない、従ってベルギーを通過してフランスの備えのない地点から入り込み、独仏国境に集中するであろうフランス軍主力を包囲殲滅するというのが作戦の骨子で、これは大小64回にわたると言われる改正の中でも変わっていません。
これはクラウゼヴィッツ以来の『目的はパリ、目標はフランス軍』を地で行くもので、フランス軍主力を撃滅すればパリは手に入る、パリを手に入れればフランスは終わる、というものです。
これは普仏戦争の経験からすれば無理のないところで、シュリーフェン・プランは急速な動員と開進開始によってフランス軍の先手を打ち、敵主力を包囲殲滅するという点で大モルトケの作戦の規模を極大化したものと見ることもできます。
しかし、作戦の規模に対する兵站の規模の増大はそれに見合ったものでなく、またベルギーの抵抗力を下算したこともあります。


原案通りであれば基本的な師団数の不足もあって、陣容が右へ延びる分より薄くなり、また兵站線はより延びるので問題外です。
パリが右袖に入るかどうかが問題なのではなく、フランス軍を撃滅できるかどうかが問題なのですから。

フランスは陸軍主力が壊滅すれば手を挙げるものと思われますが、それもロシア軍の戦況如何で変わってくる可能性もあります。
タンネンベルグで史実のように大敗してくれれば、マルヌで勝ちさえすればフランスを戦争から蹴り出すことは可能だったかもしれません。
しかし、結果的にパリ近郊のガリエーニ軍に第1軍の側面を衝かれたのが直接の敗因だとしても、第1軍としてはパリを直撃するコースに乗っていたのを兵力不足で前面を縮小しようとした結果の内回りなわけで、誤判断とは言えない。
史実の兵力及び状況でドイツ軍がマルヌで勝つのは非常に難しいと思います。むしろ、英仏軍の失策を期待せねばならないほどに。
第1軍から1個軍団を引き抜いて東部へ回そうとしたからだというのも、第1軍は既に補給切れで弾薬食糧ともに非常に怪しい状況ですから、ここに1個軍団が残っていてどういう影響があったかは一概にこうと言い切れません。

また、1914年の戦闘による死傷者数はドイツの予想をはるかに超えたものでした。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re:WWIのシュリーフェン・プランの評価  ■名前 : 山家  ■日付 : 03/3/18(火) 21:07  -------------------------------------------------------------------------
    まなかじさま、大変詳細な御意見をありがとうございます。

 私としても、シュリーフェン・プランの政治的外交的妥当性には、極めて疑問を覚えてなりません。小説名を失念しましたが、その登場人物が、露は総動員を始めたら、独はシュリーフェン・プランにより自動的にベルギーへ侵入し、世界大戦になるのが分かっていた、それなのに露は総動員を掛けた、従って、第一次世界大戦は露の総動員が原因であり、露が開戦責任を全面的に負わねばならない、と主張しているのがありました。しかし、露が総動員を始めたからと言って、独も中立国であることを保障したベルギー侵入が許されるものでしょうか。また、独仏開戦時には、仏もベルギー侵入を計画しており、独を一方的に非難するのは理不尽だという意見を雑誌記事で読んだこともありますが、私としては、その裏付けとなるような資料をまだ読めておらず、その意見に疑問を持っています。ともかく、自分から敵国を増やすような作戦計画は妥当とはいえないと思います。

 それに仏露を打倒したら、と言われますが、独はどのような講和を結ぶつもりだったのでしょうか。それが、どうにも分かりません。仏軍主力を撃滅すれば、仏は無条件降伏に応じるという楽観的な考えだったのでしょうか。ボルドーやアルジェ等に仏が政府を移転し、抗戦を継続している間に、露軍がベルリンを目指す可能性は考慮されなかったのでしょうか。以前に、別宮さまに独の講和条件を質問したら、講和条件無くして、独は開戦したと言われました。これは本当なのでしょうか。

 ともかく政治的外交的な妥当性が、シュリーフェン・プランにあったか、と言われると、私としては疑問があると述べざるを得ないのです。英国と講和するにしても、どのような条件で講和するつもりだったのでしょうか。仏露が独墺と講和した以上、賠償金を支払った講和に、英国は応じると考えていたのでしょうか。

 次に、マルヌでの敗北が、シュリーフェン・プランの失敗を結論付けたわけですが。それ以前に、仏軍の1個軍を包囲殲滅していれば、独対英仏の兵力バランスは崩れ、マルヌで独は勝てたというのは、どうでしょうか。私の読み誤りがあったらすいませんが、別宮さまはそのように主張されているように思われます。私としては、1個軍が包囲殲滅されても、史実とそう変わらない気がします。確かに兵力バランスは変わりますが、1個軍の包囲殲滅にはそれなりの時間が掛かります。そのために拘束される兵力を考えると、マルヌ会戦に大きな変化があるとは思われないのです。

 まなかじさまは、史実の兵力及び状況では、英仏軍の失策が必要と言われているようですが、私もその意見に半分同意します。私としては、第1軍がパリからのガリエーニ軍の攻撃を考慮していたら、もう少し史実よりも良い結果が得られたのでは、という思いがしてならないのです。別宮さまは、独では要塞(この場合パリ)に立て篭もっている兵は出撃しないと教えており、第1軍の兵力配備はそれを踏まえたもので非難できない、と書かれているようです。しかし、要塞に立て篭もっている兵が、他の部隊と共同して出撃してくるというのは、古今の戦史でよくあったことのように思われるのですが、本当に当時の独では、そのように教えられていたのでしょうか。そのことが、マルヌ会戦について、どうしても私の中で疑問として残ってなりません。
 

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re:WWIのシュリーフェン・プランの評価  ■名前 : まなかじ  ■日付 : 03/3/19(水) 23:17  -------------------------------------------------------------------------
   >  それに仏露を打倒したら、と言われますが、独はどのような講和を結ぶつもりだったのでしょうか。それが、どうにも分かりません。仏軍主力を撃滅すれば、仏は無条件降伏に応じるという楽観的な考えだったのでしょうか。ボルドーやアルジェ等に仏が政府を移転し、抗戦を継続している間に、露軍がベルリンを目指す可能性は考慮されなかったのでしょうか。以前に、別宮さまに独の講和条件を質問したら、講和条件無くして、独は開戦したと言われました。これは本当なのでしょうか。

1941年の大日本帝国も同じようなことやってますが。
つまり、戦争計画=作戦計画なのですね。
勝てばナントカなる。
逆に言えば、負けたらなんともならないという危機感だけが独り歩きしているような。
ドイツ帝国も大日本帝国も統帥権が独立している以上、作戦計画は軍部が独占します。
しかし、軍部は戦闘にのみ責任を負うているのであって、政治外交には口出しできません。
ここで大切なのは、統帥権が独立している国が戦争に勝つには、強力な宰相及びそれと軍部トップが緊密な協力を保つことが必要だということです。
普墺、普仏、日清、日露と。
つまり、しっかりしたヴィジョンを用意し、軍部と折衝するのは宰相の役目であり、本来それこそがカイザーあるいは天皇を戦時に輔弼する最大の任務であるべきなのですが、ベートマン=ホルヴェークも東條あるいは近衛もその任務を果たしきれませんでしたね。
また、軍部の方でも政治外交のことは口出しこそしないけれども、それに協力するという姿勢は常に持っていなければなりません。
この点で、1914年のドイツや1941年の日本では、脅威があまりに巨大であったので勝つこと自体が困難であり、作戦計画の側で政治外交に協力できる余裕というものが全くありませんでした。
そういう面で見ればドイツ参謀本部も帝国大本営も責めきれない部分もありますが、やはりその破局に至る戦争に向かうまでの道筋において政治外交との協力というものを既にないがしろにしてきた責任というものは負わなければならないでしょう。

また、このシステムでうまくいくのはつまりそうした個人的なつながりによる面が大きく、軍も政府もあまりに官僚的に肥大した組織に成長してしまうと、巧く働かなくなるような気もします。
それ以前にでかすぎる敵を作るなということがまず第一ですが。

>  ともかく政治的外交的な妥当性が、シュリーフェン・プランにあったか、と言われると、私としては疑問があると述べざるを得ないのです。英国と講和するにしても、どのような条件で講和するつもりだったのでしょうか。仏露が独墺と講和した以上、賠償金を支払った講和に、英国は応じると考えていたのでしょうか。

もともと、英国との戦争計画それ自体ありゃしません。
海軍ですら英国と本気で戦う用意などなかったのです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re:WWIのシュリーフェン・プランの評価  ■名前 : 山家  ■日付 : 03/3/20(木) 20:03  -------------------------------------------------------------------------
   > ここで大切なのは、統帥権が独立している国が戦争に勝つには、強力な宰相及びそれと軍部トップが緊密な協力を保つことが必要だということです。
> 普墺、普仏、日清、日露と。

 まなかじさまの強力な宰相及びそれと軍部トップが緊密な協力を保つことが必要という説には、少し疑問があります。少なくとも日露戦争時の桂首相は、強力な宰相とは言えないと思います。小村外相はポーツマス条約締結の際、露が賠償金を支払わない限り、講和には応じられないと主張し、ルーズベルト米大統領や伊藤博文等の強力な主張が無ければ、桂首相は小村外相の主張を受け入れるつもりでした。その後、桂首相は小村外相等の反対から、満鉄の日米共同経営を拒否しています。それを思うと、強力な宰相及びそれと軍部トップが緊密な協力を保つことが必要とは、必ずしもいえないのではないでしょうか。
 もちろん、WWIの際、ドイツ参謀本部が政治外交に協力的であったとは決して言えず、その点、まなかじさまの御指摘は正しいと思います。

> もともと、英国との戦争計画それ自体ありゃしません。
> 海軍ですら英国と本気で戦う用意などなかったのです。

 それなら、なぜ、独大海艦隊は整備されたのでしょうか。また、対英戦争必至のシュリーフェン・プランは立案されたのか、と私は叫びたくなります。無計画な戦争にも程があると思います(最も、1941年の日本の対米英蘭戦争計画を見る限り、人のことは言えませんが)。私としては、英国との戦争に、シュリーフェン・プランの発動が繋がるなら、それ以外の作戦計画を考えるべきだと思いますが、やはりそれは無いものねだりなのでしょうか。もし、ベルギーに侵入しなかったら、英国は対独戦を決意しなかったという説を見るにつけても疑問に思われてなりません。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : 明治時代には元老がいましたね  ■名前 : TETSU29  ■日付 : 03/3/21(金) 9:15  -------------------------------------------------------------------------
    日露戦争時の日本には、政府と軍の上に伊藤博文や山県有朋といった元老達がおり、政府・軍共に元老の意向を無視した行動を取る事は出来ず、政府と軍の方針は最後まで乖離することなく日露戦争を終える事が出来ました。

 政府と軍の方針を一致させなければ戦争に勝てるはずも無く、まなかじさんの「統帥権が独立している国では強力な宰相及び軍部トップが緊密な協力を保つ必要がある」という意見はこのことを指しているのではないでしょうか?
 文民統制が確立していれば宰相が特に強力な指導力を持たずとも、軍は政府に従うので方針は必ず一致します。しかし統帥権が独立している国でこれをするには強力な指導力をもった人物が政府のトップに必要になります。
 かつてのプロシアではビスマルクが強力な指導力を発揮し、明治の日本では元老達が政府と軍を監督してその役目を果たしたということではないでしょうか。

 言うまでもないことですが、政軍間の方針の一致は必要条件であって十分条件ではないので、政府と軍の方針が乖離しなかったからといって必ずしも勝てるとは限りません。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re:明治時代には元老がいましたね  ■名前 : 山家  ■日付 : 03/3/21(金) 21:55  -------------------------------------------------------------------------
    言葉が本当に足りませんでした。まことにすいません。

 私としては、強力な宰相がいなくとも、文民政府と軍に緊密な協力関係があればいいのではないか、と思われました、日露戦争のときは、文民政府と軍に緊密な協力関係があり、それによって、戦争に勝利できたように思われるのです。TETSU29さまが言われるように、日露戦争時には、元老が文民政府と軍の緊密な協力関係を築かせていたと思います。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re:明治時代には元老がいましたね  ■名前 : 木  ■日付 : 03/3/24(月) 19:53  -------------------------------------------------------------------------
   日露当時の、軍のトップであった
大山、児玉はともに、すぐにでも首相を
勤めることができるほどの人物でしたし
桂も戊辰での軍の経験があります。

またこの当時の元老をはじめとする日本の上層部は、
「日本が植民地にされるか否か」
という瀬戸際かつ激動の時代を生きており
国を失うことの恐怖を知り、
かつ軍の動向、そして政治が多大な影響を
及ぼしあうことも知っていたからこそ、
文民、軍の協力が円滑に進んだのではないのでしょうか?

ただこの場合
>強力な宰相
というより、
トップを叱り付ける
女房役(自分がトップになれるだけの力量あり)
ですかね。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re:明治時代には元老がいましたね  ■名前 : 山家  ■日付 : 03/3/25(火) 21:39  -------------------------------------------------------------------------
    話しが思い切りずれますが、児玉将軍は、陸軍大臣や総理大臣といった職務、軍政家に余り向いていないような気がします。

 以前、「大慶油田が発見されていたら」というスレッドへ書き込む際に、いろいろ調べたのですが。「満州の誕生」(久保尚之著)等によると、児玉将軍は、満州に対する日露戦争後の日本人50万人の移民を計画したり、満鉄の日米共同経営に反対したり、日露戦争後に英米等が求めた日本軍占領地の軍政解除に消極的だったり、と日露戦争の際の英米の支援やポーツマス条約をきちんと理解していないのでは、と私には思われる節があるのです。メッケル少佐に激賞され、日露戦争の際の名参謀長を務める等、有能な軍令家なのは認めますが、有能な軍政家というのには首をひねらざるを得ません。台湾統治にしても、例えばアヘンの厳禁に消極的でした。これは台湾の当時の実情に即したものだという擁護論もありますが、私としては、アヘンのような麻薬は速やかに厳禁するのが、麻薬の害を防ぐために必要不可欠ではないか、台湾の当時の実情云々というのは、台湾経営のためにアヘン専売による収益を用いたことを糊塗するためでは、と疑われてならないのです。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re:明治時代には元老がいましたね  ■名前 : 木  ■日付 : 03/3/26(水) 19:48  -------------------------------------------------------------------------
   >陸軍大臣や総理大臣といった職務

たしかに、天才肌といわれるだけに
統括、管理、調整と言った職務
については向いてなかったかも…


>>(自分がトップになれるだけの力量あり)

>>(敗北の現実をも冷静に見つめることのできる)
に変更させていただきます。


満鉄共同経営の是非については、個人的に異論があるのですが
資料が見つからないので(涙)それについては日を改めて
書き込ませていただきます。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : シュリーフェン・プランの破綻の要因  ■名前 : 山家  ■日付 : 03/3/27(木) 22:36  -------------------------------------------------------------------------
    自分から話しをずらしてしまって言うのも気が引けますが。

 本題に立ち返ると、結局、WWIの独軍のシュリーフェン計画は、組織内部の論理に囚われてしまったように思われます。軍事的にいかに勝利するかを、軍部が追及するのはある意味当然ですが、その際、政治外交との協同を常に考えねばなりません。しかし、軍事的にいかに勝利するかを追及する余り、政治外交との協同を疎かにしたのでは、と思われるのです。軍事的に仏を圧倒したとして、どのように講和するのか。それは政治外交の話しだとして関与せず、協同しなかったのではないでしょうか。

 別宮さまのHP等を私が理解するところでは、WWI当時の独には、露が総動員を始めたら、ベルギーに侵入する以外の作戦計画はありませんでした。国境を軍隊が越えるのは政治外交の話しなのに、軍事的に勝利するために、政治外交を無視してしまったのではないでしょうか。もし、独がシュリーフェン・プラン以外に作戦計画を作ることができ、それが国境を越えず、防備をまず固めるというものであったら、英国は連合国としてすぐ参戦することは無く、WWIの行方は大幅に変わっていたのでは、と思われるのです。

 前回の書き込みの際に言葉が足りなかったので、児玉将軍の評価について補足すると、児玉将軍は軍人としては有能であっても、政治家としてのセンスには疑問を覚えざるを得ないということです。英米等の諸外国との友好関係を考えるなら、速やかに日露戦争後の日本軍占領地の軍政は解除して、外国人の来訪を認めるべきですし、満州への日本人の移民は経済的に困難を極めることも予想できる(日本人移民よりも、現地の中国人の方が賃金が安いし、開拓しやすい所は既にほぼ開拓されている)のではと思われ、有能な政治家とは思われないからです。

 軍事的に妥当なことと、政治外交的に妥当なことが必ず一致するとは限りません。その際に協同して行動を決める必要がありますが、WWIのシュリーフェン・プランは、軍事的なことを追求する余り、政治外交的な協同性を失ったものになったように思われます。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re:シュリーフェン・プランの破綻の要因  ■名前 : ルクルス  ■日付 : 03/3/28(金) 1:59  -------------------------------------------------------------------------
   >  独がシュリーフェン・プラン以外に作戦計画を作ることができ、それが国境を越えず、防備をまず固めるというものであったら、英国は連合国としてすぐ参戦することは無く、WWIの行方は大幅に変わっていたのでは、と思われるのです。

その作戦なら、そもそもww1は起きなかったのではと思います。


>  軍事的に妥当なことと、政治外交的に妥当なことが必ず一致するとは限りません。その際に協同して行動を決める必要がありますが、WWIのシュリーフェン・プランは、軍事的なことを追求する余り、政治外交的な協同性を失ったものになったように思われます。

クラウゼビッツによれば戦争は政治の手段ですから、軍事は政治に従属すべきでは。
ただWWIは目的無き戦争もあり得るという、ある意味戦争論の想定外の事態ですね。

渡辺昇一がシュリーフェン・プランを政治を信用しなくなった結果と評していたのを思い出しました。ビスマルクと大モルトケが見事な関係を築いた後、ビスマルク無くして参謀本部のみ突出してしまったからだと。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re:シュリーフェン・プランの破綻の要因  ■名前 : 山家  ■日付 : 03/3/28(金) 20:45  -------------------------------------------------------------------------
   > >  独がシュリーフェン・プラン以外に作戦計画を作ることができ、それが国境を越えず、防備をまず固めるというものであったら、英国は連合国としてすぐ参戦することは無く、WWIの行方は大幅に変わっていたのでは、と思われるのです。
>
> その作戦なら、そもそもww1は起きなかったのではと思います。

 そうでしょうか。確かにWWIは起きなかったかもしれません。しかし、戦争が全く無かったか、と言われると私は首を傾げます。セルビアは墺の要求に対し、全面的に当初は応じていません。露がセルビアに墺の要求を全面的に呑むように勧告し、セルビアが応じれば、戦争は避けられると思いますが、WWIの勃発までの外交経緯を考える限り、露がそもそもそのような勧告を行うとは思えません。その場合、露・仏・独・墺はお互いに総動員を行い、国境沿いに睨み合いが始まるのではないでしょうか。そして、墺は自分の要求を飲ませるために、セルビアに宣戦布告をし、独墺対露仏セルビアで戦争が起きたように思われてなりません。

> 渡辺昇一がシュリーフェン・プランを政治を信用しなくなった結果と評していたのを思い出しました。ビスマルクと大モルトケが見事な関係を築いた後、ビスマルク無くして参謀本部のみ突出してしまったからだと。

 私は、シュリーフェン・プランを立案した際から、独参謀本部は暴走したように思われます。シュリーフェン・プラン以前の独の作戦は、まず露を攻め、露と講和してから、仏と戦う計画だったそうです。この作戦だと、ベルギーの中立侵犯は無く、英の参戦はまず避けられたでしょう。しかし、露仏同盟等の政治外交の条件や軍事的勝利を追及する余り、独参謀本部はシュリーフェン・プランを立案・策定したように思われます。

 ───────────────────────────────────────  ■題名 : Re:シュリーフェン・プランの破綻の要因  ■名前 : ルクルス  ■日付 : 03/3/28(金) 23:50  -------------------------------------------------------------------------
   >  露・仏・独・墺はお互いに総動員を行い、国境沿いに睨み合いが始まるのではないでしょうか。そして、墺は自分の要求を飲ませるために、セルビアに宣戦布告をし、独墺対露仏セルビアで戦争が起きたように思われてなりません。

露仏独とも国境で睨み合ってるだけで、同盟国としての義理は立ちます。
(紹介されたHPに仏露密約の条文がありましたね)
セルビアから遥か彼方の北フランスで独仏が死力を尽くして全面衝突しなければならない必然は無いです。唯一の理由がシュリーフェン・プランでしょう。

当時、独仏露間に戦争でしか解決不能な深刻な問題は存在しなかった。モロッコ危機など独仏直接対決するサレエボ事件以上の危機は外交で解決してきました。


シュリーフェン・プラン立案は独は将来必ず仏露二正面作戦を行わなければならないという強迫観念、刷り込み、運命論の類が前提にあると思います。

露仏同盟下でも様々な政治状況下、様々な軍事行動が有り得たはずです。(戦争に至らなくとも)にもかかわらずシュリーフェン・プランしか策定しなかったというのが最大の破綻点でしょう。

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