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> 空軍が戦闘機を継続的に配備し続けるために必要な開発部門は、極端にいうと国全体で3チームあれば良く、次期戦闘機を競作させるとしても4チーム分のリソース(1.基礎研究×1、2.次期機開発×2、3.現行機改良×1)があれば十分ということになります。
もともと日本には戦闘機を設計できる廠社は「中島」「三菱」「川崎」の三社しかなく、しかも川崎は能力が不足気味だったため中島に対する予備としか見なされていません。この2.5社で陸海軍の戦闘機すべての試製を行っていたのです。
これらが戦時体制となって試製能力標準その他が整えられ、「中島陸軍向け単戦」「中島海軍向け複戦」「三菱海軍向け単戦」「三菱海軍向け複戦」「川崎陸軍向け単複」に分割されたにすぎません。
それでもなお、戦闘機の試製能力としては陸海軍合わせても5本しかなかったのです。単戦と複戦という2機種を合わせてです。
このうち「中島陸軍向け」の部門は高速爆撃機キ四十九をも手がけなければなりませんし、「三菱海軍向け複戦」の部門が達成できたのは零観だけで、それ以降には独自にカタチあるものを作り出せず「三菱海軍向け単戦」部門の一部になってしまいます。三菱は戦闘機の設計ラインを2本持ったつもりでいたのですが実質1本分でしかなかったのです。
さらに戦時状況が深まってはじめて「川西」「立川」その他にも戦闘機の試製能力を持たせる試行が行われるようになってゆきますが、これは上記実質4本しかない設計ラインだけでは数的に能力不足であることが露呈したからです。
一方で、後期の陸軍新規試作計画の代用名称(キ番号)をたどると「三菱」で陸軍向けの機体開発が想定されていたことになっていますが、これらは「三菱海軍向け」の設計を陸海軍協同試作機として取り上げていたのがもっぱらだったのではないかと思います。あるいはそれ以外の純然たる新規計画も含まれていたのかもしれないとしても、三菱の陸軍向け戦闘機の計画は(司偵の設計課を流用した)キ八十三を除いたほか全部が実行段階に至っていません。そもそも、三菱には陸軍向けの戦闘機設計を担える設計能力がなかったのですし、さらにそもそもをいうならば海軍向けの戦闘機設計だけでも担い得ていません。
このように、統廃合して減らせる試製能力などどこにも存在してはいません。
むしろ、本来ならば想定されていなかったはずの「川西」「立川」などの戦闘機設計が戦争末期に重要視されることになっていったように、複線化してゆくことの方が有効だったのです。
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